チェンマイに長期滞在しているEさんは私がとても尊敬している日本人女性だ。80歳を過ぎたEさんは20年以上前にご主人に先立たれ、その後タイに住むご子息夫妻を頼ってチェンマイに移住。現在は、ピン川近くの閑静な住宅街にこじんまりとした家を借り静かに生活をされている。ご自宅の家具は最小限に抑えられ、小さくとも広々とした空間はいつもきれいに整頓されている。元々、日本では茶道の先生をされ短歌も詠まれていたというEさん。彼女の持つシンプルな生き方は、茶道から学んだといつか話してくれたことがあった。
「和敬静寂(わけいせいじゃく)」
Eさんが好きな言葉だ。
「和」は和やかに、「敬」はお互いに敬いながら、「静寂」は心清らかに美しく・静かにという意味を持ち、お茶の心を表しているのだという。
すっと一本筋の通った考え方を持ちながらもそれを押し付けることなく、会話の端々にはユーモアがにじみ出る。ご自分から交友関係を広げることはなくともEさんを慕って訪れる人は多く、そんな人々が家を訪問するといつもさりげなくお茶を点てて下さったり美味しい家庭料理を振舞って下さったり。私もEさんのお宅にいると温かい気持ちでいられる。たくさんおしゃべりをした後、会話の余韻に浸りながら安らかな気持ちで家路につく。Eさんと出会ってから学ばせて頂いていることは実に多い。
数ヶ月前に私がご自宅にお邪魔した時、仏教についてお話をしている中でEさんが以前、日本で「在家得度式」を受けていたことを知った。在家得度とは出家せずに世俗で普通の生活を営みながら仏道の教えを守るための儀式で、お釈迦さまの弟子となり生涯をかけて自らの意思で仏教の戒律を守り、日々精進してゆくことを誓うものだ。
在家の信者が守る仏教の戒律は5つある。
-生き物を殺さない
-盗みをしない
-性的な過ち(配偶者以外との性行為等)を起こさない
-嘘をつかない
-酒や麻薬など自らを酔わせるものを摂取しない
この5つの戒律を土台とすることで、私たちは自らの心を浄化し普段の生活を営みながら日々修行を積んでゆく。この世に生まれた全ての生命を敬い慈悲の心を持つこと、自分の欲求に任せて人のものを盗らないこと、自己中心的な幸せに溺れて性的な過ちに走らないこと、自分や他者を侮ることなく純粋で正直な気持ちで接すること(真理、事実のみを語る。逆に罪を生む言語は慎むこと)、自らを酔わせることで罪を犯すきっかけを作らないこと。
「だからと言って、がんじがらめに戒律に縛られるのではないのよ」とEさんは笑って言った。
「戒律を守ることは逆にシンプルな心を持てて気持ちいい。自分にとって心地よいから守るのよ」
自らのために守る。確かにこれら一つ一つは周りと良い関係を築くため、人間の持つべき基本的なモラルとして大切なことばかりだ。しかしこんな風に肩の力の抜けた言い方ができるのは、きっとEさんがこれまでの人生の中で様々な紆余曲折を体験してきているからこそなのだろう。
一方、仏教初心者である私はまだ戒律を常に意識し厳守することで精一杯。毎晩一人で就寝前に行なう内観タイムでは一日の行動を思い起こす度に落ち込むことも多く、自分を観察すればするほど、心の清掃をしようとすればするほど心の底の汚い部分にぶつかり、その度に辛くなる。心地よいなんてまだまだ遠い世界。自らと向き合うことはこんなに苦しいことなのかと感じることの方が多い・・・。
* * *
私は山奥の森で修行する僧侶を思った。僧侶の守る戒律は5つどころではなく227もある。それにも関わらず森の僧院のプラ・アーチャーン(師僧)をはじめとする弟子の僧侶たちは皆イキイキとしている。肌にもハリがあり話すことはクリアで聡明。苦しんだり悩んだりしている様子は外からは見受けられない。
一度、私はそのわけを聞いてみた。
「空(くう=ワーンプラオ)だからだよ」
プラ・アーチャーンは言った。
「心をゆったりと保ち
多過ぎず少な過ぎず、程よい状態を保つ。
逸る気持ち、成功や完成への期待なんてしなくてもいい。
今、この瞬間にある呼吸に意識を置き、そこでベストを尽くしなさい。
焦らなくてもいいんだ。
日々それをきちんと守ることで次第に、ゆっくりと
心は強く育ってゆくからね」
* * *
私たちは、社会で働き、多くの人と接しながら生きている。その中で戒律を重んじること自体に執着していると、逆にその本質は見えなくなるのかも知れない。
いつの日か私にもEさんやプラ・アーチャーンのように穏やかに笑える日が来るのだろうか。
いや、そんな未来のことも、今考える必要はないのかも知れない。
「心の森」
チェンマイ郊外 山奥の僧院にて
2013年9月執筆